本校について

沿革

1926年

「東洋温灸医学院」を設立する。 大正の元号が昭和に変わるこの年、本校の前身である「東洋温灸医学院」は現在の東京都新宿区四谷四丁目にある長善寺の境内の貸家、ここからのスタートであった。この時、創立者坂本貢28歳、役所に勤めながらの夜間のみの授業であったが独自の研究を進めた温灸が評判を高め、生徒も増え夜間のみでは対応しきれなくなり、役所を辞し、昼間も開講することになる。

1929年

「東京高等鍼灸医学校」を設立。 私立学校としての認可を受けるまでには3年の月日を要した。

1931年

私立学校としての認可を受ける。 「東洋温灸医学院」を開設してから6年目にして私立学校としての認可を受け、自他共に認める全国初の東洋医学の体系的教育機関として実を結んだ。

1932年

学校認可と同時に坂本貢校長も正式に校長の認可を得て、昭和7年には旧文部大臣より解剖、生理、診断、細菌、消毒、孔穴、経穴、鍼灸、マッサージ、温灸、電気治療各学科の教員免許の公布を受ける。 また、私立学校協会常任理事に就任。三輪田元道(三輪田学園)・村田謙三(村田簿記)・杉野繁一(杉野学園)の各氏等と共に各種学校の振興に貢献する。

1933年

校舎を新設。大番町に移転。 旧文部省から委嘱され、坂本校長自ら鍼灸、マッサージの講習を全国の女学校等で巡回指導する。

1936年

警視庁による鍼灸試験合格率も飛躍的に向上。長年の努力により、本校に対する評価も高まり、特に坂本貢校長が編纂した「鍼灸医学精義」をはじめ数々の学校用教科書は、本校のみならず世間一般の鍼灸試験受験生にとっても不可欠の参考書となった。

1939年

無試験開業指定校へ昇格。 昭和14年4月、鍼灸科で無試験開業の指定校となり、15年3月には青年学校令により青年学校に認定、16年4月にはマッサージ科でも無試験開業の指定校と認定され、晴眼者、健常者を養成する初の全国無試験開業指定校として名実共に備わった私立学校となった。

1941年

学校の内容が整備されると入学者も増加し、大番町の校舎では収容不可能になり、信濃町に新校舎を建設した。この時、学生数は1,500名を越え、本校としては第一次の黄金時代を迎えることとなった。 奇しくも第二次世界大戦の幕開けと同じくしての落成式であった。

1942年

入学希望者が更に増加する。 別科の教科は6ヶ月で、働きながら学び、資格を身につけることが魅力であったようである。 無試験開業できる本科(4年制)は陸軍・旧文部省により青年学校の課程と同等以上という兵役上の特典が与えられ、入学資格等も変更された。

1943年

日本鍼医事新聞を創刊する。 坂本貢校長は学校経営のかたわら警視庁委嘱を受け、日本鍼灸師協会を結成するとともに、一方では業界、学会の情報機関として日本鍼医事新聞なども創刊する。

1945年

終戦、そして休校。 昭和20年5月の大規模な空襲により幼稚園校舎とともに一切のものを焼失、休校の措置をとる。 終戦はその年の8月15日であった。 翌年には信濃町仮校舎を建設。 いち早く、学校再建にとりかかる。戦災を受けた学校としては東京では最も早く仮校舎も完成し授業が再開された。

1947年

本科生、無事卒業する。 学校再開に伴って学生も徐々に復学し、戦争中の本科生も無事に卒業させることができた。 しかし、時節柄新規の入学者の数は数えるばかりであった。

1948年

「財団法人東京高等鍼灸医学校」として認可が下りる。柔道整復部門を創設。 校舎の一部を専修学校や病院に貸すなどして、学校運営を維持する努力も払われたが、深刻な学校運営の時期が続くことになる。その中坂本貢校長は財団法人設立について旧文部省に申請を行い「財団法人東京高等鍼灸医学校」として正式に認可が下りる。そしてこの年、将来性、学術的基礎理論、教育体系等周到な検討を重ね、柔道整復部門を創設。4年制のモデルケースとして開設し、学生10名程のスタートであった。

1949年

昭和24年2月、あん摩師、はり師、きゅう師養成施設として「東京高等鍼灸学校」が旧厚生省より認可される。

1953年

三栄町に校舎を建設。 学校の基盤は徐々に整いつつあったが、入学者は増える兆しもなく、苦難の学校運営が続くが仮校舎のままでは授業が思うにまかせず現在の新宿区三栄町に校舎を建設する。

1954年

「東京高等鍼灸学校熱海分校」として熱海校を設立。 徐々に明るい兆しが見え始め、入学志望者数も増え始める。 保養地として栄えていた熱海市も復興し始め、旅行者も増加しそれに伴いマッサージ師が極端に不足していたため無免許業者の営業が大きな問題になり、本校へ養成校設置の要望があり、マッサージ師養成専門学校熱海校の設立となった。この年、柔道整復科が柔道整復師養成施設として認定された。

1955年

熱海校の校名を「呉竹マッサージ学校」と変更。

1956年

財団法人「呉竹学園」が学校法人として認可される。 本校は昭和23年12月に財団法人としての認可をうけていたが、この年の4月に「学校法人呉竹学園」設立の申請書を東京都知事宛てに提出し、10月に認可された。これも本学の経営基盤が徐々に安定してきた事が背景として挙げられる。全科合わせて募集定員数は420人であった。同年、熱海校第1回卒業式を行う。

1960年

東京校入学者の増加に伴い、校舎を取壊し増改築を行う。 鍼灸部門は20年代後半に学生数が激減したが、30年代に入り志願者が一転して増加、収容スペースが不足となり、既設の校舎を取壊し、その後に3階建3号館(旧)として建設する。

1968年

熱海校創立15周年記念式を行う。 この年、熱海駅前へ校舎を移転する。

熱海駅前校舎

1969年

現在の三栄町に校舎2号館(旧)を落成する。

1970年

専科(鍼灸科)の設置認可を受ける。 志願者及び、鍼灸業界より多年にわたり専門課程の新設を望む要望があり、それに応えるとともに斯学の進展と私学の振興、国民の保健衛生に寄与する。その目的をもって新築した施設に修行年限2年半の鍼灸専門科を設置した。この年、各科の部科修行年限及び生徒定員も変更され、660人となっている。創立者坂本貢勲五等瑞宝章を受ける。

1972年

熱海校本科(鍼灸マッサージ科)新設。

1973年

創立者・坂本貢永眠。 熱海校、校名を「呉竹鍼灸専門学校」と変更。 昭和48年9月23日、本校の創立者坂本 貢校長が逝去。(享年75歳) 戦前、戦後を通じ激動の時代を学校と共に奮闘し続けた生涯であった。また、坂本校長は本校の経営のみならず教科書の執筆、治療器具類の発明等、学会、業界に偉大な業績の残した。この年、東洋医学臨床研究所(現、四谷校舎附属施術所)が開設している。

1976年

「東京鍼灸柔整専門学校」と校名を変更。 学校教育の一部改定に伴い、9月10日付をもって熱海校と共に専修専門学校として認可される。また、東京校は「東京鍼灸柔整専門学校」と校名を変更した。

1983年

鍼灸教員養成課程を代々木校舎に新設。 教員養成課程の設立はかねてよりの念願でもあったが、東洋医学に対する関心の高まりや、鍼灸師としての専門技術の習得、基礎医学の強化、特に臨床医学の進歩に即応できる人材育成が急務であった。 教員養成課程の新設は、この年の鍼灸教育資格に関する旧厚生省令改正と機を共にしている。

1984年

熱海校30周年記念式典を行う。

1985年

鍼灸教員養成課程を代々木校舎に新設。 昭和と共に歩んできた本学の創立60周年記念式典が学会、教育界、官界、卒業生を集め盛大に行われた。 中国との学術交流をスタート。 昭和60年(1985)坂本浩二理事長が道を拓いた上海中医薬大学へ夏期に学生を派遣、中国伝統医学を習得、学習すると共に国際交流の成果をあげている。

1986年

東京校の校名を「東京医療専門学校」に変更。

1987年

東京校四谷校舎本館を増設。

四谷本部校舎

1991年

東京校四谷校舎 、実習棟新築。

1995年

創立70周年を迎える。 この年、創立70周年を迎え記念事業として70周年記念棟(現2号館)及び学生会館(現5号館)が完成した。

2000年

東京校四谷校舎、 4号館新築。

2002年

熱海校を新横浜へ移転 。校名を「呉竹鍼灸柔整専門学校」に変更。

横浜校

2009年

「呉竹医療専門学校」(大宮校)開校。「呉竹メディカルクリニック」 開業。

大宮校

2013年

教育の質の維持向上および教職員の能力向上のため「呉竹学園 教育センター」を設置。

2014年

東京校・横浜校・大宮校が設置する全16学科が文部科学大臣より「職業実践専門課程」の認定を受ける。

2018年

東京校四谷校舎 5号館新築

5号館

2020年

東京校四谷校舎 1号館新築

1号館

2024年

東京校四谷校舎 本館新築

本館

2024年

東京医療専門学校を「東京呉竹医療専門学校」に、呉竹鍼灸柔整専門学校(横浜校)を「横浜呉竹医療専門学校」に、呉竹医療専門学校(大宮校)を「大宮呉竹医療専門学校」に校名を変更。
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