鍼灸科附属施術所所長
藤田 洋輔 先生

鍼灸師を目指したきっかけ

5歳から13歳まで空手を習い、そのせいか、早くから身体や身体感覚に興味を持っていたと記憶しています。その延長線上で身体にかかわる仕事に就くことを漠然と思い描いていました。
ただ、何かに集中して向き合うことが自分には合っていると感じ、はじめは技術職を目指しました。中学卒業後は宮大工になりたいと両親や周囲に伝えたところ、「高校くらいは卒業したほうがいい」と諭されました。高校へ行く意味を考え、心や体を強く成長したく、ストイックなスポーツであるボクシング部のある高校へ進学することにしました。

鍼灸師の道を考えたのは高校生のときです。体への貢献に関心があったことと、生涯の仕事として誰からも求められる「医療職」、自身の特性に合う「技術職」、そして「普遍性」のある職業を選びたいと思い、他の医療職も検討したうえで最終的には鍼灸師に行き着きました。
高校3年生のときに鍼灸師養成校の受験もしていました。ただ、ボクシングでずっと競っていた他県の同期が最後のインターハイで優勝したのを見て、やり残した気持ちがわいてきました。そこで競技を続けようと決め、スポーツ推薦枠の話をいただき大学に進学しました。結果的にさほど成績は残せなかったのですが(笑)。

大学の学部は商学部です。社会や商業のこと、消費者のことなどを学ぶことができ、この学びは現在にもつながっています。
鍼灸師については、大学4年間のなかでやはり就きたい仕事と思うなら目指そう、学費は奨学金でなんとしよう、と考えていました。

東京(呉竹)医療専門学校を
選んだ理由

大学4年間でさまざまな人や本に出会い、それでも生涯の仕事として「医療職」「技術職」の考えは変わらず持っていました。「普遍性」はやがて「蓋然性」に変化しながらも、「医療的な視点で患者さんに向き合うこと」や「集中して何かに向き合うこと」を考えて、大学卒業後は鍼灸に特化した専門技術での貢献をしようと鍼灸科を選択しました。

当時、鍼灸師養成校は全国に20数校あったのですが、ほとんどの学校の案内冊子を取り寄せ、興味を持った学校の説明会は可能なかぎり参加しました。そのなかで、本校には医療的な視点を強く感じました。また、ケガに関する最低限の知識を身につけ、これまで経験してきたスポーツの世界でもいずれお手伝いができればと考えていたので、本校が外傷の専門性を学べる柔道整復科を併科している点も僕の学校選択にとっては大きかったです。

当時の本校は午前のⅠ部、午後のⅡ部、18時からの夜間部があり、2年次、3年次からダブルスクールで学ぶことも視野に入れ、鍼灸科Ⅱ部に入学しました。

ダブルスクールと仕事の両立

早くから現場で経験したい気持ちは強かったのですが、鍼灸科1年生のときは医療のことも鍼灸のこともまだまだ分からないので、大学時代からのアルバイトを続けました。また、柔道整復科への進学(ダブルスクール)が可能かを勉強時間や学力、生活全般から推し量っていました。その結果、大変なのは覚悟のうえで、少しでも早く資格を習得したいと思い、鍼灸科2年生のときに柔道整復科Ⅰ部にも進学しました。

僕は大学を卒業してから入学したので、4年分遅くスタートしたという感覚がありました。今になって考えれば決して遅くはなかったのですが、「一日でも早く経験や技術を得なければ」と思っていました。当時の学生の中には、在学中から修行のように施術所で育ててもらう風土が一部残っていて、そこで既に経験を積んでいる人との差を早く埋めたいと焦りにも似た気持ちがありました。

1年間の学生生活を経てリズムがつかめてきたこともあり、鍼灸科2年生から現場に身を置こうと探していた時期に、街でたまたま遭遇した鍼灸マッサージ院がありました。気になり、訪問して話を伺ったところ、求人もしていました。院長が後天性の視覚障害の方で、視覚障害になる前は本格的に空手に取り組み、身体感覚に長けた方でした。
昭和の時代に活躍した医師の間中喜雄先生や、名人といわれた代田文誌先生の本などで「鍼灸師はまずは触れる力を鍛えること」と見聞きかじっていたので、触れる感覚に長けた先生のもとで経験をしたいと思い、お世話になることとなりました。
院は午後からのオープンだったので、授業後に通うことができます。1日の時間を無駄にせず経験ができるのも大きいと考えました。

午前は代々木校舎へ行って柔道整復科、午後は四谷校舎へ移動して鍼灸科の授業を受け、そのあとは急いで院に向かい、週5~6日間、夜12時まで助手として働きました。また、途中からスタッフが増え、夜12時以降もオープンすることになりました。
週3日は深夜も助手を行い、終わると家に帰り2~3時間ほど寝てから学校へ行くという生活でした。ここでの経験が臨床で重要な「触ること」の基礎につながったと思います。

さらに週1回は外部の勉強会や研究会に参加していたので、まとまった勉強時間を確保するのが難しく、院の合間に教科書を開くこと、授業を受けながら可能な限り学びを完結すること、の2点で乗り切っていました。授業中には教科書や呉竹学園オリジナルテキストの『ダイジェストスタディ(当時はコンパクトスタディの名称)』に書き込んで整理し、院ではそれを開いて復習する、というやり方です。居眠りをしている場合じゃなかったです(笑)。


書き込みがたくさん!
学生時代の教科書(生理学)と
呉竹学園オリジナルテキスト
『ダイジェストスタディ(当時はコンパクトスタディ)』(解剖学)

卒後臨床研修の重要性を体感

学校卒業後は当然ながら臨床の現場に身を置きたかったので、日中は整形外科、夕方からお灸を主体とした鍼灸院に3年半勤めていました。整形外科では鍼灸臨床の特異性(得意性)を理解するため、理学療法技術であるマニュアルメディスンを学び、実践での経験を得ていました。鍼灸院では、越石まつ江院長方(越石鍼灸院院長)より、患者さんへの向き合いそのものを感じさせていただいたことは、僕の医療人・鍼灸師人生においてもっとも根幹にある経験となっています。同時に週1回は本校の鍼灸科附属施術所で卒後研修を受け、鍼灸臨床の基礎はこの研修で得たといえます。

その後、2009年に大宮校が開校するにあたり、「附属施術所での専任職員として働かないか」とお声がけをいただきました。当時、鍼灸師として医療機関で広く医療貢献をしたいと考えていたこと、研修の重要性を僕自身が体感したことから、クリニックが併設される大宮校で、医療貢献と卒後研修に従事することは意義深いと考えて、入職を決めました。大宮校で9年間を過ごしました。
2018年には東京校へ異動となりましたが、引き続き附属施術所での卒後臨床研修を中心に従事しています。僕自身が卒後研修を経験したことから、専門職、医療職、対人援助職、どの視点においても卒後間もない時期に研修を受ける重要性を強く感じています。

学生時代と有資格者の大きな違いは「責任(感)」です。有資格者としての責任感を持ちながら、経験のあるメンターのもとで一定の研鑽を積むことで、学生時代に学んだことを確実に身につけ医療者としての大きな成長につながると考えています。

大学院で研究マインドを養う

大宮校で臨床施設に従事しているとき、鍼灸師が臨床研究を学び、他職種にも理解を得る客観的な報告も重要と考えるようになっていました。ちょうどそのころ、明治国際医療大学大学院鍼灸学研究科の通信教育課程が開設されました。開設に大きく携わられた同大学元学長の矢野忠先生の「臨床家こそ研究マインドを涵養すべき」という理念に感銘を受け、2012年に進学しました。

大学院では鍼灸の自律神経系における研究の第一人者であった今井賢治先生(現・帝京平成大学准教授)のもとで学び、日本鍼灸の特徴的技法の1つである接触鍼法の自律機能の研究を行いました。その後も3年間研究生として研究課題への取り組みを続けました。大学院修了とともに鍼灸学の修士号を取得し、2014年以降は呉竹学園で教員として登用されました。

学生時代と卒後研修時代に影響を受けた先生方

学生時代に影響を受けた先生は多いのですが、そのなかでも古屋英治先生(本校元専任教員・元附属施術所所長)と岩元健朗先生(本校講師)からは大きな学びをいただきました。古屋先生からは鍼灸の治効メカニズムや推論をする重要性を学び、論理的、批判的に物事を考えることの大切さを教えていただきました。岩元先生からは1年生の鍼実技の際にさまざまな技法があることを教授いただきました。現在僕が臨床で活用している接触鍼法を最初に示してくださったのは岩元先生です。

その後の卒後臨床研修では所長であった古屋先生をはじめ、ベテランの古海博子先生、篠原隆三先生、 二村隆一先生がいらっしゃいました。特に接触鍼法の名手である篠原先生からはその1つである触れることを大切にした散鍼法の技術を学び、受け継いでいます。また、接触鍼法については、その他に谷岡賢徳先生が創設された大師流小児はりの会(関東)でも学び、その後10年間普及と運営にも関わっていました。大学院での研究課題についても、これらの経験が大きかったです。

鍼灸師に必要な心理学的知見を学ぶ

外へのチャネルは広い視野を持つ力、確からしい情報を自分で開拓する力につながります。僕の場合、岩元先生や大宮校の三浦洋先生(大宮校専任教員)にご紹介をいただき、出端昭男先生方が創設された日本鍼灸師会における鍼灸臨床研修会の門を叩きました。そこでは鑑別をすること、必要に応じて医療連携すること、そのうえで鍼灸師として最大限の貢献をすることを学びました。

また、鍼灸師は身体の専門家ではありますが、長く患者さんと関わる医療でもあり、心理的側面への配慮も大切と思うようになっていました。とある研究会で故・岩泉瑠實子先生(鍼灸師・臨床心理士。鍼灸師へ傾聴などの関わりを広く教授していた)に出会い、「鍼灸師が患者さんに向き合うには「傾聴」をさらに学ぶとよいですよ」と教えていただきました。その際に、傾聴(来談者中心療法)に特化した学びの場を紹介いただき、すぐに受講を申し込んだのを覚えています。

岩泉先生とのご縁は続き、地元鍼灸師会の大先輩としてその後も多くの学びをいただきました。特に「傾聴」の重要性は臨床経験を積めば積むほど感じています。良い先人に出会うことがすべての始まりであると思います。鍼灸師・マッサージ師が得るべき「心理学的知見」については、岩泉先生の想いも背景に、現在は奈良雅之教授(目白大学大学院心理学研究科)方とともに発信を続けています。

医療者、対人援助職としてのテーマ

今は本校が長い歴史のなかで受け継いできた鍼灸科附属施術所の技能や心を伝承しながら、研修生とともに研鑽しています。

鍼灸臨床においてはさまざまな背景を持った患者さんがいらっしゃいます。その患者さんに対し、プライマリケアから症状の緩和、また、長く患者さんへ寄り添うことで、さらには土台となるプライマリヘルスケア・養生・未病治(治未病)といった予防やセルフケアも一緒に考えられる専門職と思います。いわば0次医療ですね。

幅広い患者さんへの貢献ができるように、多様な症状への理解や患者さんに寄り添う向き合いなど、ジェネラル(全般的)な視点が大切と考えています。

左:救急セット、右:検査用具など。救急セットはカバンに常備、検査用具は被災地やスポーツフィールドなどに行く際は持参しているとのこと

上:救急セット、下:検査用具など。救急セットはカバンに常備、検査用具は被災地やスポーツフィールドなどに行く際は持参しているとのこと

在校生へのメッセージ

僕は縁がありお声がけをいただき、今は医療機関の中での外来も担当しています(埼玉医科大学東洋医学科)。ただ、臨床に携わるほどに、医療機関であっても地域医療や地域社会であっても、対人援助職を土台に患者さんに向き合い、貢献するやりがいと責任のある仕事であると感じています。自分自身の興味関心は大切にしつつも、常に対象者がいることを忘れないでほしいと思います。

また、「手をつくること」と「頭をつくること」は同時に大切です。卒後の間もないころは、患者さんより話を伺い身体を診て推論し、そして触りながらさらに考え、それを統合する。良いメンターから繰り返しフォローを受け、手や空気感の共有を行い成長していってほしいと思います。

「急がば回れ」、僕も実践の中で、学ぶことや研鑽することが変わっていきました。 呉竹学園は卒業生が多く、さまざまなチャネルが広がっています。困ったときに手を差し伸べてくれる先輩の人数が多いことは皆さんの強みです。僕自身が先輩に助けられて今がありますし、僕もそう在りたいと思っています。卒後臨床研修でもお待ちしています。